弘前に移住して4年目に入ります

弘前に移住してきて、4年目に入りました。

もう、すっかり城下町の複雑な地理にも慣れて、目的地に1人で運転してたどり着けるようになりました。

もちろん、Google先生にはよくお世話になっていますけれどね。
たまに、すごいルートを示されて、地元の人に驚かれる道のりを行きますけどね。


ともかく、生活のペースは落ち着いて、時間とお金のやりくりもつくようになりました。

実は、移住する前は、
「とにかく3年やってみて、どうしても札幌にいる方が幸せだと思ったら帰ろう」
と考えていました。

でも、どうやらわたしはここで幸せになっていて、息子は来年、弘前の小学校に入ります。
そんな弘前暮らし4年目の始まり始まり。

今だから言えば、1年目は大変でした

これは、今だから書けますが、移住しての1年目は何度か「札幌へ帰ろう」と思いました。

ぶっちゃけ、夫と別れて、子どもを連れて実家に身を寄せても暮らしていけるだろうかと妄想したこともあります。

部屋も札幌より小さくなったし、家計収入も3割ぐらい減ったし、最初の2ヶ月は自分の車も無くて、しかも一番の豪雪の冬で、本当にやっていけるんだろうか?と不安の出発でした。

でも、そんな中でも、趣味を通じて友だちができたり、休みの日には子どもと出かけ回ったりで、だんだん自分のエリアが広がっていきました。
なんだかんだで、仕事も就いていましたし。

夫が家にいる時間も、札幌時代に比べれば長くなりました。
通勤が電車で1時間かかっていたのが、車で15分になりましたし、シフトがあらかじめわかるので、「2週間休みが無いと思ったら、急に明日が休みになった」ということが無くなりました。

2年目は激動でした

移住2年目は色々と激動でした。

自分の仕事面では、パート勤務ながらに弘前支店の立ち上げの実務をまるっと任されてしまったり。

その会社を半年後に退職してから、先に辞めていた人の声かけで副業的に仕事を請けていたら、その人が飛んでしまって、まるっと背負うことになったり。

一方、趣味の方では、「キセカエヤ」を始めてイベントに出店したりするようになりました。
おかげで、こちらに来てからは旧姓を名乗る機会がないはずなのに「うらべっち」と呼んでくれる友達も多くいます。

自営業始めましたの3年目

3年目は、自営業の始まりの年でした。

「さいとうサポート」として開業届けを出し、自宅事務所を拠点に事務代行や訪問パソコンサポートをするようになりました。

キセカエヤもおかげさまで知られるようになってきました。

収入的には妊娠~出産後では一番上がりました。
とは言え、まだまだひとり暮らしできる規模ではないので、コンスタントに月20万以上を売り上げることを2年目の目標におきます。

夫は淡々と移住の時に決まった介護福祉事業所に勤めています。
イベント担当の時は、ドライブツアーの下見で3回+後の挨拶で1回も現地に行ったり、なぜか使ったこともないIllustratorでポスターを作らされたりしています。それ、Wordやラベルマイティじゃダメなの?

息子は、まだ津軽弁にはなっていません。
小学生男子は「わぁ(私)」とか言ってるのを聞くので、学校に上がったら言うのでしょうか。

「津軽の足引っぱり」とは言うけれど…

先日、街ナカゼミでりんご飴マンも言っていた津軽の足引っぱり文化。

関連記事>弘前街ナカゼミ:第1回りんご飴マンの「渋谷から弘前へ転職してみたらカオスだった話し」を聞いてきた

その割に、わたしの周りは突き抜けた変わり者が多くいます。

自然が厳しい地域では、集団生活しないとみんな死んでしまうので、歴史的に横並びになりやすいのだと思いますが、太宰治や寺山修司、棟方志功など歴史的な人物から、最近見たプロレスラーの船木誠勝、ケンドー・カシンに至るまで、「変人」が多いという不思議。

津軽の足引っぱり文化をものともせずに突き抜けていくエネルギーの持ち主は、世界に出ていっても突き抜けているのかも。

そんな話しを夫にしたら、
「たしかに足は引っぱるけど、ある程度になると諦めるのが早いんじゃない?」
と言われました。

たしかに、弘前で出会った変わり者の友人たちも、周りからは「あの人はああ言う人だから」と諦められる、というか受け入れられる、というか、大目に見られている気がします。

…わたしもそうなっているのでしょうか。

明日は、初のグループイベントで、まだまだ資料作りに追われている中でこの記事を書きました。
これから、また少しずつ新しいイベントにも絡んでいきます。

そのお知らせも近々アップしますね。
それでは、また。

【関連記事】
自分をなくして移住地に溶け込んでも意味が無い。ブラジル移住者の言葉が今も刺さる