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わたしの祖父は弘前出身、戦後70年にその足跡を思う

祖父の本より「著者近影」

祖父の本より「著者近影」


8月15日、戦後70年の終戦記念日です。
今日は、お墓参りの代わりに母方の祖父のお話しを。

青森県弘前市→樺太→終戦とともにシベリア抑留→北海道日高地方へ、と流転の人生を送った寅吉おじいちゃん。

奇しくも弘前人の夫と結婚し、弘前に移住した孫が書き起こします。

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弘前市で生まれ、弘前工業高校を卒業しました

祖父・寅吉さんは大正3年生まれ。
何か家庭の事情が複雑だったようで、ほとんど母子家庭同様の中で育ちました。
手に職を付けさせたいという母親の意向で工業高校へ入ったものの、卒業後は職人としての就職が難しく、検定で資格をとり教員になりました。

樺太で招集、そして敗戦

赴任先は当時は日本領土だった樺太。
結婚し、子どもも2人産まれました。
太平洋戦争の中、身体が弱かった寅吉さんはなかなか招集されなかったのですが、最後の年、誰でも赤紙が来る頃に招集され兵隊へ。
その直後、日本は敗戦し、寅吉さんはロシア軍の捕虜として5年間シベリアに抑留されました。

残された寅吉さんの母と妻子は命からがら、日本へ引き揚げます。
その道中で、2歳の息子(わたしにとっての伯父)が亡くなりました。
このことは、わたしが中学生ぐらいの頃、祖母の葬儀で初めて知りました。
流れ弾に当たって亡くなったということでした。

抑留されて演劇の台本を書いていた祖父

5年間の抑留生活、過酷な労働で命を落とした人も多いと聞きます。 ですが、寅吉さんの場合は、元々身体が弱かったので、軽労働に従事しており、後に抑留されている人々の慰問のための演し物を作る役割になりました。

この時、歌や舞踊で慰問をしていたチームの人たちが日本に復員してから、秋田県で後の「わらび座」を始めています。

祖父は演劇の台本を書く仕事をして、ロシア人の女医さんと共にロシア文学の翻案もしたそうです。
けっこう政治的な風刺を入れた作品も上演できたそうで、
「あれはよくやらせてくれたものだ」と語っていました。

これは後に、わたしが劇団に入った後で、
「美佳ちゃんはまだ台本を書かないのか」
との言葉とともに聞きました。

北海道日高地方に復員し、教員から校長へ

寅吉さんは5年間の抑留生活を生き抜き、日本へ帰ってきます。

先に引き上げていた家族が、遠い親戚を頼って身を寄せていた北海道の日高地方に暮らすこととなりました。

その後、わたしの母を含む3人の子が生まれ、4児の父になります。

戦後の人不足の中、祖父はすぐに小中学校の教員から教頭、校長になりました。
今の時代であれば、工業高校出身で大学も出ずに教員になり、校長になるということはあり得ないでしょうね。

日高の振内、豊糠、浦河、緑丘などに赴任します。
当時の様子を書いた本を見ると、水の乏しい山中の集落で、井戸を掘って水脈を掘り当てるまで、校長の寅吉さんは願掛けとして夜の営みを慎んだなどという話しもあって、開拓地の中での校長の役割は学校内だけにとどまらなかったという様子を感じます。

書き残す遺伝子は引き継がれて

そう、寅吉さんは書く人でした。
開拓地に赴任した校長先生の生活を描く「こうちょうひんひ」を数冊、他に句集・歌集も自費出版しています。

「日々の記録」として日誌を書きつづり、綴じたものを本棚いっぱいに収めていました。誰にも読まれたくない部分はロシア語で書いたりしていたようです。

わたしが知っている寅吉さんは、もう退職して書道塾を開き、たまに剣道や居合いをしたり、パチンコに遊びに行っている元気で多趣味なおじいちゃんです。
新しいことが好きで、16ミリフィルムでわたしのことを撮影・編集したミニ映画を作り、3歳児にアフレコまでさせています。
たぶん、今の時代に70代くらいであれば、ブログを書いたりSNSで家族が知らない交友関係を広げていそうな気がします。

わたしは脚本家にはならなかったけれど、昔からずっと何かしら書き続けていて、今はこのブログを書いていることも、祖父の遺伝子のせいかも知れません。

70年前の終戦記念日、祖父にとっては5年間の抑留生活の始まりであり、曾祖母と祖母と長女にとっては、過酷な引き揚げといつ戻るかわからない祖父を待つ暮らしの始まりでした。
祖父が戻らなければ、母は生まれず、わたしもこの世に存在しなかったわけです。

戦争というものが否応なく小さな暮らしを翻弄し、引き裂いてきたことを、自分につながる人々の体験が教えてくれます。

いま、わたしが弘前に移住して子育てをしているのも、何かの縁かもしれません。
今年はお墓参りに行けなかったけれど、きっとどこかから見ていてくれていると思います。

さて、これから父方の本家へお参りに行ってきます。 こちらは大家族の農家、1日に40~50人が集まる中で、久々にご挨拶してきます。

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