続けることが才能。小学校の家庭科の製作もできなかった子がキセカエヤになるまで
SNSでフォローしていただいている方はよくご存知ですが、今日はキセカエヤとして中三弘前店でドールドレスデコ体験ワークショップをしていました斎藤です。
毎度恒例ですが、ギリギリまで縫いものをしていました。
小学校の図工、家庭科の成績がすこぶる悪かった自分が、まさかこんな小さなドレスを作り、人様からお金をいただいているとは。
「器用だね」
「よくこんな細かいもの作れるね」
と、今でこそよく声をかけられていますが、元々は不器用で、ただ着せ替え人形が好きだから細々と作り続けたおかげで、ここまでできるようになりました、というお話し。
家庭科でフェルトのティッシュカバーが筆入れになってました
小学校の家庭科で針と糸の使い方を教わるじゃないですか。
わたし、なぜか正方形のフェルトを折って、ちょっと縫うだけのティッシュカバー作りが、細長い筆入れにできあがってしまいました。
たぶん、どこか折るとか切るとかするのを忘れたのでしょうね。
周りの子たちがちゃんとできているのに自分だけ形が違って落ち込みました。
さらに、それを見た担任の先生に、
「うらべは不器用なんだなぁ」
と、悪気無く言われました。
それですっかりショックを受けて、自分は不器用なんだと刷り込んでしまいました。
着せ替え人形が好きで好きで、紙人形のドレスを自作
そんな不器用な少女だった自分が、大好きだったのが着せ替え人形。
紙の着せ替え人形を袋に入れて、リカちゃんより少しお姉さんのジェニー人形を箱に入れて、毎日のように友だちの家に遊びに行っていました。
紙の着せ替え人形は、絵の得意な友だちと人形に薄紙を重ねてなぞり書きして、自作ドレスを作ったりしていました。
既製品のようにきれいではありませんが、好きな色、好きなデザインで服を作るのは楽しく、デザイナーごっこをしていました。
実は、一番好きだった人形と自作ドレスは、いまだにうちのタンスに眠っています。
Hちゃん、ここにあなたが描いたドレスもあるよ。
ミシンを覚えたのはジェニー人形のギャザースカート作りで
ジェニー人形のドレスはさすがにお裁縫ができないと作れないので、初めて作ったのは小6か中1の頃でした。
記憶があいまいなのは、すでに長期不登校になっていたからです。
当時日本ヴォーグ社より発行され始めた「ジェニーファッションクラブ」の中に、初心者向けのスカートやパンツの作り方が載っていたのです。
母親に教わりながら、古い古いミシンをがんばって動かして、何度か縫い直しながらやっとできあがりました。
白い膝下丈のギャザースカートで、上に着るものの色を選ばなかったので、よく使いました。白だったから、すぐに汚れてたっけ。
それから、同誌が発行されるたびに、都会の書店まで1時間近くかけて行って買ってきて、毎日持ち歩いて眺めては、たまに縫い物をしていました。
その後、札幌に引っ越し、フリースクールに通うようになり、人形の服を作ってバザーに出品して1万円以上の売上を出したりもしました。
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上京して就職しても、地方で1人で仕事をしても、細々と製作していた
その後、20歳で劇団に入るために上京し、最初の数年は女子寮、後に女性の先輩とルームシェアをしました。
その時は、最初は布団一式と衣装ケース1つ、段ボール2箱しか自分の荷物を持っていかなかったけれど、自分のスペースが分かってくると、だんだん実家から人形や人形服の本も送ってもらい、また作り始めました。
すると、同居していた先輩も人形を気に入って遊ぶようになり、いっしょに型紙本の中から人形の服を縫ったりもして、ミシンもよく貸してくれました。
地方公演の準備の仕事をする時は、公演の半年前からその地域に住み込んで、毎日その近隣の町の人を訪ねる暮らしになります。
地方事務所で一人きりで生活と仕事をした時期もありますが、そんな時も休日に人形の服を手縫いで作ったり、できたハンカチワンピースを着せた人形を撮影したりして遊んでいました。
地方事務所の生活も布団と段ボール2つぐらいしか持ち歩けないのですが、1つ2つでも趣味のものがあると、そこが自分の居場所らしく一息つける空間になるのでした。
そんなわけで、1年に1つ2つの時もあるけど、人形遊び、服作りは続けていました。
結婚して一カ所に落ち着いてから再燃
夫と結婚して札幌で暮らすようになり、旅公演以外での長期出張をしないようになって、少し経ってからです。
どうしても欲しくなったジェニーフレンドを買ってから、いっきに人形熱が再燃しました。
それまでは先輩から借りたり、実家から借りたりしていたミシンを思い切って購入しました。
当時はまっていた舞台の衣装レプリカを作ってファン友だちに見せたり、ドール専用ブログを開設して「うちの子」自慢をするようになりました。
人形もどんどん増えて、リカちゃんサイズにも手を広げました。
ドールブログを通じて、近所・遠方問わず友だちができて、オフ会もしました。
2006年頃、mixiなどのSNSが普及し、誰でもブログで発信できるようになった頃でした。
お金をいただく経験で一段レベルアップ
ずっと自分のドール服作りは、自分の人形の為でした。
たまに、人にプレゼントするために作ることはありましたが、売る為に作ることは、フリースクールのバザー以来やっていませんでした。
札幌から弘前に移住することが決まり、札幌の人形友だちと最後の記念にとリカちゃんキャッスルの札幌イベントに出店しました。
売るために作る、ということは、型紙本の型紙は使えません。
また、縫製のズレがあるものも売れません。
リカちゃんキャッスルのイベントに出る、ということは、集まるお客さんも自分と同様に型紙本を買ったり、自作したりする人が多くいますからね。
パクリや手抜きはすぐにわかってしまいます。
それまで作っていた型紙本の難しい型紙で作る服より、数段デザインは簡素になりましたが、自分で起こした型紙でできるだけていねいに作りました。
これを経験したことで、それまでの自己満足の範囲から、一段レベルが上がったように思います。
弘前でキセカエヤはじめました
弘前に移住してから1年後、SWALLOWTAILの内本明美さんに声をかけていただいて、キセカエヤを始めました。
最初に出たのは屋外のイベントで、ハロウィンに向けてリカちゃんの魔女帽子を作りましょう、というワークショップ形式でした。
その翌年、ハンドクラフトとリラクゼーション・フードが集まるイベント「サンサーラ」に初めて単独出店、その後も弘前市を中心に、青森市にも行ったりして、「キセカエヤ」もだんだん認知が拡がってきました。
今やっているドールドレスデコ体験ワークショップは、リカちゃんサイズのドレスを作っておいて、当日それをお客さんにデコパーツを貼って仕上げてもらうというものです。
いつもイベント数日前から前夜までひたすらミシンを踏んでおり、その様子をInstagramやFacebookページに流しているので、当日は 「よくできあがったねぇ」 と言われています。いや、本当に。
パープルドレス、3着できました!明日、中三弘前店1階でお待ちしてます(^_−)−☆#キセカエヤ #ドールドレス #ドレスデコ
Posted by キセカエヤ on 2015年9月11日
不器用でセンスないと自覚していた女の子がハンドメイド作家やってます
家庭科でフェルトのティッシュカバーさえまともに作れなかった女の子が、今はキセカエヤとして11cmサイズのドール服まで作っています。
ミシンと仲良くなったおかげで、息子の甚平や園グッズも縫ったり、津軽に来ればこぎん刺しを楽しんだりもしています。
才能って続けられることだよなぁ、とこの頃思うところが別の場所でありまして、そういう意味では自分には人形服作りの才能があったようです。
何につけても、続けられることが一番の強さ。
そして、人の目にさらすこと、市場で評価されることは、何よりのレベルアップになります。
ブログでの発信や、SNSの使い方、そもそもパソコンの使い方も同じです。
できない、わからないことを、楽しみながら、時にもがきながら、何とかやり続けていく。
すると、しばらくして振り返ると、遠くまで来たなぁと実感する日が来ます。
来週からまた新しい技術を勉強に行きます。
自分には無理かもー!と思う気持ちと、でもやってみたいー!という気持ちを天秤にかけて、やってみたい方が大きいのなら、やる前から無理だと決めるのではなくて。
まぁ、やってみて、技術が足りないなら、モガモガと食らいついていって、できないなりに時間をかけて続けて習得していく。
このブログだって、そうやってこのシステムで書いています。
あなたが続けていきたいことは何ですか?
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お絵かきでの紹介ムービーもどうぞ!
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北海道の小さな町で生まれた不器用な女の子がドール服を作る「キセカエヤ」になるまで。 そんなストーリーをかわいいイラストでつづる紹介ムービーをキセカエヤちゃんねるにアップしました!...
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