32年前の登校拒否児童から、いま学校へ行きたくないあなたへ(初稿)
この記事は、 #不登校は不幸じゃない 発起人の小幡和輝さんのブログに体験談を寄稿するために書いたものです。
2000字程度までを目安に、ということで初稿からだいぶ削りましたので、こちらには初稿をそのまま掲載します。
ファンシーな便せんに書いた担任への手紙
「何が学校だ! 学校に行くくらいなら死んだ方がましだ!」
N君が言いました。わたしもそう思います。
そんな書き出しで始まる手紙を、「うちのタマ知りませんか?」の便せんに書いて担任の先生に出したのが、小学5年生の3学期。
時は32年前です。
まだ20世紀で、1980年代で、昭和でした。
当時は不登校という言葉ではなく、「学校恐怖症」から「登校拒否」と言われるようになった頃。
わたしが住んでいたのは北海道日高地方の小さな町で、サラブレッドや乳牛がたくさんいる広々とした風景の中でした。
小学校も中学校も高校もそれぞれ町に一つずつ。
父親は教員。
そんな中で、初めての「学校に行けない子」になりました。
理由なんてわからない
理由は、と聞かれても、今でもはっきりとはわかりません。
幼稚園の頃からそういうところが苦手で、行き渋ったり脱走したりしていました。
転勤族の子なので小学2年で一度、転校しています。
前の町とは車で4時間くらい離れているので、北海道でなければ県外でしょう。
小学校ではたまに行き渋る他はまぁまぁ優等生で、作文が得意で、男子とよく遊び、学級委員では副委員長や書記をやるタイプでした。
あの手紙の冒頭に出てきたN君は架空の人物で、わたしが言いたいことをかわりに叫んでくれる役割で登場しました。
叫びたくても、優等生気質で自分のままでは叫べない。
だから、架空の人物の叫びに同調する形で、なぜ自分が行きたくないのかをつづりました。
息苦しかった学校
学校ではとにかく、息苦しかった。
バブル時代で、ネアカがハッピー、ガリ勉はネクラと言われる頃。
先生の言うことに真面目にしたがって、周りの子のように「ほどほど」にすることができず、特に女子グループからは浮いていました。
高学年になると、もう男子グループに入って遊ぶこともできなくなり、休み時間が所在の無い時間になりました。
でも、学校へは行かなきゃ。
でも、お腹がいたい、頭が痛い。
そんなことを繰り返しているうちに、ささいな物音に過敏になったり、尖っているものが見ていられなくなりました。
高校の教員だった父は、そのようになっている状態の生徒と関わった経験があり、同じ様子を見せた娘が学校に行かないことをついに認めたのです。
数年後に親の会で父は、
「教壇に立ち続けることを悩んだけれど、娘がトラになったりクマになったりして人に危害を加えたわけではないから」
と語っていたそうです。
それから長い長い登校拒否期間がありました。
日高管内で唯一の登校拒否きょうだい
3つ年下の弟も、その数カ月後から学校に行かなくなりました。
元々、わたしよりもおとなしいタイプの弟は、先生が他の子を叱っている声も怖がるような子でした。
姉が学校に行かないで家にいるのに、元々あまり学校が好きではない弟だけがどうして登校し続けるでしょう。
それで、小さな町で、いえ、日高管内の市町村で唯一の登校拒否児童になりました。
これは、学校の先生が母親に言ったことなので、本当かどうかはわかりません。
学校に行かないきょうだいのわたしたちは、放課後の時間は普通に近所の子と遊んだりしていました。
学校がある日中は寝ているか、きょうだいだけで遊んでいました。
とは言え、学校に行けないのは心の病で一時療養しているだけだから、いつかは治療して戻らなきゃいけないと思っていたのです。
札幌市まで高速バスに乗って大きな病院にカウンセリングを受けに通ったり、 保健室登校、校長室登校、特別支援学級への通学もしました。
700人近い児童数の小学校で特別支援学級はわたしの他に2人だけ。軽度の知的障害もある子たちでした。
そこにわたしが行ったことはクラスでニュースになったようで、教室の窓からのぞき込む子がたくさんいました。
小学校を卒業して、エレベーターを昇るようにみんな同じ顔ぶれの中学校に入学。
制服も一式買ってもらって、最初の一カ月は頑張ったけれど、5月の連休が明けたらもう一度登校する気力がおきませんでした。
中3になる時に親の転勤があり、札幌市へ引っ越し。
誰も自分のことを知らないリセットされた環境でなら頑張れるかも、と今度は優等生にならないようにおどけながら、女子グループに入ってなんとかやりながら過ごしました。
だけど、そのエネルギーはやはり4月の1カ月間だけでした。
もう、どうしたらよいのか……。
フリースクールで他の不登校児と初めて出会う
そんな矢先、アイドル雑誌「明星(現Myojo)」に保坂展人さん(現世田谷区長)がライターとして連載していた「元気印レポート」で、札幌に初のフリースクールが誕生したことを知りました。
その代表は、数年かけて様々なカウンセリングや親の会を転々としていた中で出会った女性で、当時の日記に「今までで一番ピンときた」と書いていた人でした。
そこに書かれていた連絡先にドキドキしながら電話をかけて、見学に行き、その「フリースクールさとぽろ(既に閉校)」に通うことにしました。
そして、わたしは初めて自分たちきょうだい以外の「学校に行けない子」たちと出会ったのです。
それはもう、無人島でサバイバル生活をしていた人が、他の人間と出会ったようなもの。 あの子もこの子も、学校に行けなくて辛かったんだ。
それが最初は信じられないほど、みんな弾けていました。
たくさんのおしゃべりをして、遊んで、話し合って、ケンカして、恋愛をしました。
自分たちの体験談を元に、スタッフの脚本家が小さな劇に仕立て、アマチュア劇団の演出家のご協力を得て、わたしたち自身で上演をしたこともあります。
その中で、
「登校拒否は病気なんかじゃない! わたしが悪いのでも、お母さんの子育てが間違っていたのでもない!」
と主人公が叫ぶ場面がクライマックスでした。
不登校の子供が更生施設で殺される事件が起きていた頃です。
拙いけれど迫真の演技で、保護者が多い観客席からたくさんの拍手と涙をいただきました。
20歳で親元を離れて東京の劇団へ
その時の感動が元になり、わたしは演劇にのめりこみ、20歳で東京の劇団に入団しました。
初めて親元を離れて、いきなり朝から晩までの集団生活。
先輩たちとの今でいうルームシェアだったので、それは不安もありました。
が!
それから8年間は常勤スタッフとして、劇団の仕事で全国を回りました。
それから結婚して7年間は、北海道の会社勤めと東京の劇団との、いわゆる二足のわらじを履く生活をしました。
今は青森県弘前市で夫とともに子育てをしつつ、仕事をしています。
劇団にもまだ在籍していて、時折メール対応やホームページの更新をしています。
途中、経済的にしんどい時期も、人間関係的にしんどい時期もありました。
でも、結局今も関わり続けられるのは、好きで選んだことだからです。
北海道の会社勤めは、まるで校則が厳しい学校のようでしたが、生活のため、劇団との両立のためと割り切って続けることができました。
今はフリーランスの在宅ワーカーとして、やはり学校に行きたくないと家にいる小学生の息子と日中を過ごしています。
なお、いっしょに不登校をしていた気弱な弟は、昔の面影はどこへやら。
いかついおじさんになって正社員としてガテン系の仕事をしつつ、ギターをかきならしてステージに立っています。
そして今、伝えたいこと
30年経って、学校もずいぶん変わりました。
今、息子が休んでいる小学校からは特に親の責任と追い詰められることもなく、フレンドシップルーム(適応指導教室)や通級指導教室の選択肢もあります。
それでも、まだ。
休み明けに子供が命を絶つニュースは、毎年目にします。
だから、いま、学校に行くのが辛い、行けないあなたに伝えたいのです。
学校は社会のほんの一部で、そこに合わなかったからといって人生が「詰み」になるわけではないことを。
社会に出たら、もっと多様な人がいて、もっと多様な生き方があることを。
振り返ると、わたしは40代の今が一番心身ともに安定して楽しく暮らせています。
ここまで生きてきたから見える風景です。
これから先も上がったり下がったりしながら生きていくでしょう。
あなたが生きていく先に、少しでも多くの「生きていてよかった!」と思える場面がありますように。
後日、現物が見つかりました
ぎゃーーー!!
— さいとうみかこ(うらべっち) (@urabetti) 2018年8月1日
ブログにも書いた、
「学校に行きたくない理由」
を担任宛に書いた小5の頃の手紙が!!!
それを数年後に発掘した時のポエムにくっつけて!!!
出てきたーー!!#不登校は不幸じゃない pic.twitter.com/Nr1R09cmW0
#不登校は不幸じゃないin弘前について
わたしにはフリースクールがあったけれど、弘前には2018年7月現在まだありません。
不登校児の親の会などもありません。
だから、小幡和輝さんが「#不登校は不幸じゃない」のイベントを発表した時に、弘前から手をあげました。
それから2カ月が経って、8月19日まではあと1カ月。
20人を超す方々が実行委員会に参加しています。
ミーティングは19日に3回目が終わったところ。
毎回新しいメンバーが来るので、ぐるりと自己紹介をするのもそれぞれの体験共有になっていていい感じです。
イベントの詳細と申込はこちらをご覧ください。
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