青森市の松丘保養園で百年桜と109年の歴史を見てきました
4月26日、久しぶりの晴れで弘前公園には絶景の桜を見に行く車が、土手町通りは松森まで行列を作っていました。
そんな中、ひとり軽自動車を走らせて、渋滞車線とは逆方向へ。
目指したのは青森市石江にある国立療養所松丘保養園です。
国内に13ヵ所ある国立ハンセン病療養所の中で最北端。
80人近いハンセン病回復者の方々の中には北海道から入所された方もおられます。
これまでそこにあることは知っていたけれど、なかなか足を運ぶきっかけがありませんでした。
でもたまたま子どもと遊びに行ったヒロロで松丘保養園のパネル展示に出会い、そこで職員の方とお話しした時に、
「4月26日は観桜会があり、どなたでも参加できるのでよかったらおいでください」
と教えていただきました。
そんなわけで平日のお昼ごろ、途中の田舎館村で買ったトマトとりんごのジュース大瓶を持ってお花見参加に出かけたのです。
誰も知っている人がいない中、ちょっと、いやけっこう緊張しながら駐車場に降り立ちました。
さいとうがハンセン病療養所に足を運ぶまでのこと
観桜会の様子を書く前に、なぜわたしが満開の弘前公園を後にして、こぎんフェスの準備も大詰めなのに、知っている人が誰もいない療養所のイベントに出かけたのかを書きますね。
わたしがハンセン病のこと、日本で強制隔離が行われてきた歴史を知ったのは、恥ずかしながら2002年の頃でした。
当時27歳です。
NPO現代座の専従スタッフとして、地方公演の準備活動や、広報、音響スタッフなどを仕事にしていました。
その頃、座の代表で座付き作家の木村快が、各地のハンセン病療養所入所者の聞き取り取材・執筆をしていました。
元々は雑誌の依頼で連載をしていましたが、連載終了後に書ききれなかったことや、取材中に交流をもったハンセン病回復者の半生を唱歌と語りで伝える「遠い空の下の故郷」という作品を制作。
舞台がなくても、1人の語り手と演奏者がいるだけでどこへでも出かけて上演しています。
台本はnoteで配信もしています。
有料設定をしていますが、最後まで無料で読めます。
遠い空の下の故郷~ハンセン病療養所に生きて 語り1 魚のように自由に|NPO現代座note部|note
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(※このノートは有料設定ですが、台本は最後まで無料でご覧になれます。) 語り台本 木村 快 音楽 岡田 京子 語り 木下 美智子 アコーディオン 松本 真理子 導入の音楽のうちに朗読...
遠い空の下の故郷~ハンセン病療養所に生きて 語り2 遠い空の下のふるさと|NPO現代座note部|note
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(※このノートは有料設定ですが、台本は最後まで無料でご覧になれます。) 語り台本 木村 快 音楽 岡田 京子 語り 木下 美智子 アコーディオン 松本 真理子 わたしは大正十一年生...
現代座の中でも学習会があり、初めて過去にらい病と呼ばれていた病気が、ハンセン病であることも知りました。
本当に1からです。
ハンセン病は結核と同類の病原菌だけど感染力ははるかに弱く、明治時代から療養所に勤務する人が感染した例はないこと。
入所者は子孫を残さないように、断種・堕胎が行われていたこと。
海外では1943年には特効薬プロミンが開発され、隔離から外来治療に切り替えられていたのに、日本では敗戦後に憲法が制定された後も隔離政策がとられていたこと。
その根拠となる「らい予防法」が廃止されたのは、実に1996年。わたしが21歳の時です。
そして、国が責任を認め、「らい予防法」違憲国家賠償請求原告団と和解し、新聞に謝罪広告を載せたのが2002年です。
本当につい最近じゃないか!と衝撃でした。
2003年、沖縄・宮古島の療養所南静園を訪問
その後、2003年には別の作品の公演で沖縄宮古島へ行く機会があり、休日に俳優スタッフ全員で宮古の国立療養所南静園に見学に伺いました。
園内を歩き、入所者の方々のお話をうかがい、わたしたちからは歌を歌って交流しました。
沖縄は戦後アメリカ統治下になっていたこともあり、本土とはまた違うところもありました。
ハンセン病回復者の男性が、大人の息子さんとともに劇を見に来てくださったりもしました。
断種・堕胎のイメージが強烈だったので、内心びっくりしました。
そして、2018年4月青森・松丘保養園へ
さて、松丘保養園です。
駐車場に降りてから周りを見渡しても、ブルーシートを敷いてお花見などをしている気配がありません。
どこへ行けばいいのか…。
ちょっと歩いてみると、「松丘会館」と書かれた建物がありました。
観桜会のポスターが入口に貼ってあります。
何やら落語があり、ラーメンもあるようです。
ドアが開くと職員の方々がにこやかに長机の向こうに座っていて、
「いらっしゃいませ! 食券のおもとめはあちらです♪」
え、食券?
見ると左手側の机でラーメンなどの食券が100円で販売されていました。
「あの、初めて来たんですけど、いいんでしょうか?」
「ええ、もちろんです。お金を払っていただければ」
100円とラーメンの食券を交換して、続くホールのドアを開けました。
いきなり落語!
観桜会って、屋内イベントだったのーーー!!?
どこに座っていいのかわからずきょろきょろしているとオーダーをとる係の方が、
「おひとりですか? お知り合いの方は? いない? では、こちらのお席へどうぞ!」
と、テーブルへ案内してくれました。
上の写真は着席してから撮影したもので、ホール全体では中央よりやや前方でした。広い。
わたしが座った席は来賓席の端のようでした。
見回してみると、白衣を来た職員が介助している車椅子の方もいますが、普通にお食事している年配者の方も多く、どの方が入所者でどの方がお客さんなのかはわかりません。
落語が終わり、しばらくしてラーメンが来ました。
昔ながらのラーメンでホッとする味です。
すっかりお腹がすいていたので、すぐに食べてしまい、向かいの席に座っていた年配の男性からすすめられてお団子もいただき、飲み物を売りに来た職員の方からノンアルコールビールもいただきました。
ステージではカラオケが始まり、70代くらいの方が次々に上がって演歌を披露していました。お達者です。
大きめの介護事業所のイベントにいるようでした。
…しまった。このままでは、青森まで1時間かけてきて、ただラーメンを食べて帰るだけになってしまう。
新設された社会交流会館で松丘保養園の歴史を見る
ドリンクを売っている職員さんが、
「社会交流会館へは行きましたか? 今日からなのでぜひ見て行ってください」
と教えてくれました。
カラオケが続く会場を後にして、この観桜会に合わせてオープンしたばかりの「社会交流会館」へ。
松丘会館を出るとちょっとそのまま進んで左手側に、真新しいきれいな建物があります。
新築のにおいがする建物の中は、広くフラットな展示スペースが広がっていました。
受付で名前と住所を書くだけで見学できます。
入ってすぐ左手には年表があります。
上の段が松丘保養園、下の段が全国のハンセン病にまつわる歴史が記されていて、明治時代から今日まで続きます。
上の2枚の間にも戦前~戦後のことや、戦後も隔離継続を決めた「らい予防法」の交付前に全国で抗議運動があったこと、ここ松丘保養園でもハンガーストライキがされていたことなどが書かれています。
続いて園内写真のパネル展示が続きます。
わたしがグッときたのはこちら。
社会復帰見送り
昭和30年代に入ると、プロミン効果により治癒した人たちの社会復帰が始まりました。
療友たちは、寂しさを感じながらも我がことのように喜び、総出で見送りました。
(パネル展示説明文より)
らい病と呼ばれていたハンセン病は治癒した後も偏見は根強く、それは2003年にさえ回復者の方が宿泊施設に宿泊拒否された事件があったほどです。
また、ずっと隔離されて、家族からも引き離されてきた方々が中高年になって社会復帰をするのは、とても困難だったことでしょう。
見送っている方々の胸中を思うと涙がこみ上げてきました。
もしも、いま8歳の息子が、ある日突然伝染病患者として遠く離れた施設に収容され、社会に出ることなく青少年期が過ぎ去ることになったら…。
わたしたち親の葬式にも来られないどころか、後から知らされることになったら…。
辛いという言葉さえ出てきません。
いけない、書いてたらまた泣けてきた…。
それでも、ここには暮らしの歴史があります。
入所者の方々が発行してきた文芸誌も展示スペースに並んでいました。
パネルにはバイクツーリングの光景や、故郷の料理を作って食べながら思い出話をする会の活動、全盲の入所者があん摩マッサージの技術を身につけて施設内で「按摩療法所」を作っていたことなど、悲しいばかりではない暮らしの様子が見てとれました。
自治会長さんとお話しもしました
休憩スペースでコーヒーをいただきながらアンケートを書きました。
それを職員の方に渡す時に、ずっと持ち歩いていたトマトとりんごの瓶ジュースもお渡ししました。
弘前からヒロロでの展示を見て、普通に屋外でのお花見だと思って来たことなど笑いながらお話し。
そのうちに、先ほど松丘会館でわたしにお団子をすすめてくれた男性が来られて、職員の方がご紹介してくれました。
なんと、松丘保養園の自治会長さんでした!
え、60代くらいでお元気そうだし、全然入所者の方だとわかりませんでした。
あのあたり来賓席だと思っていたもの。
「初めて見る人だし、1人で来てるみたいだからどうしたのかなって思いました」
と、にこやかに言われました。
それで、あらためて20代の頃に劇団の活動を通じてハンセン病のことを知ったこと、1度来たいとは思っていたけれどどうしていいかわからず、観桜会やこの展示があって本当によかったことをお話ししました。
園地内を散策
この社会交流会館の受付に、毎日新聞のコピーがありました。
こちらの記事です。
松丘保養園のある石江で生まれ育った逢坂さんが、東京でのシステムエンジニアを辞めて石江に戻り、樹木医に。
その後、樹木医として松丘保養園の百年桜を診てよみがえらせる経緯を取材された記事です。
これを読んだわたしはぜひその百年桜を見ていこうと思いました。
しかし、職員の方も自治会長さんも
「みんな古い木ですからねぇ…」
という感じで、どれが百年桜ということでもない様子。
社会交流会館を後にして、ひとり園地内を散策しながら桜を見て回ることにしました。
ここには、住居棟も病棟も、売店も簡易郵便局もあります。
多い時は定員500人、それに職員も暮らしていたのですから、小さな村くらいあったのでしょう。
墓地も。
本当に、入所されてから生涯を終えるまで、いえ生涯を終えてもこの園地の中の焼却所で火葬され、納骨堂や墓地に収められた方が多かったのでしょう。
先ほどの年表によると園内での火葬が中止され、青森市内の火葬場で行われるようになったのは1963年のことでした。
宗教施設も敷地内に隣り合って並んでいます。
写真のカトリック教会、ミカエル教会、聖生会、天理教、楓林寺、彌廣(やひろ)神社と、一つの通りにずらっと並んでいました。
歩いていると、「通りゃんせ」のメロディーがうすく流れています。
全盲の方が歩く時に位置、方向がわかるためなのでしょう。
少し風はあるけれど穏やかな晴天の日、桜も満開です。
納骨堂の隣にある慰霊碑にはこう刻まれています。
生まれる事が出来なかった子供達の慰霊
病理標本の慰霊
また胸がつまりながら手を合わせて礼をしました。
松丘百年桜、満開でした
あちこち写真を撮りながら歩きまわり、また最初に車を停めた駐車場に戻ってきました。
ああ、本当に桜がきれい…。
あれ、あの奥の大きな桜の木、何かプレートがあるみたい…?
「松丘百年桜」って書いてある―――!!
これが、記事に出ていた桜で間違いないですね。
管理棟の正面にありました。
2011年に樹木医の逢坂さんがここを訪れた時には、かつては手入れされていた木々も入所者の高齢化で手が回らず荒れてしまっていたそうです。
その後、ボランティアで通って手当をするうちに、こんなに見事な花を復活させたそうです。
最後に観桜会らしくお花見もできました。
いつでも、誰でも訪れることができます
職員さんが教えてくれたのですが、新しくできた社会交流会館は日曜日以外毎日開館、事前連絡もいらずに誰でも見学ができるとのことです。
また、事前に申し込みをすると園内をご案内もしていただけるそうです。
季節ごとに地域との交流イベントもあるそうで、夏の納涼祭は子ども向けの屋台も出るからお子さんとごいっしょにどうぞと言われました。
わたしのように、とくに知人の縁が無く、でも気にはなっていたという方は、ぜひ一度足を運んでみてください。
ここに暮らしてきた3,078人の方々の情景にふれることができます。
松丘保養園 社会交流会館の概要
- 住所 青森市大字石江字平山19番地
- TEL 017-788-0145(国立療養所松丘保養園福祉室)
- 開館時間 10:00~16:00
- 休館日 日曜日
- 入館料 無料
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