フリースクールあおもりサニーヒルで「フリースクールってどんなとこ?」について語りました

1月19日、青森市に出かけていってフリースクール「あおもりサニーヒル」でフリースクールの体験談をお話ししてきました。

2018年7月に青森県初のフリースクールとして開校したあおもりサニーヒルは、不登校の子、学校に通うのが辛い子や、通信制高校に在籍する子などが通うスペースです。

運営はNPO法人コミュサーあおもり。地域での出会いや交流を促進する事業をしている特定非営利活動法人です。

しかし、フリースクールってどんな場なのか?
そこに通って、出たところで、子どもにどんな未来があるのか?
県内初ということは、なかなかイメージがされにくいことでしょう。

そこで、30年前に北海道初のフリースクールに3年通っていたわたしが、
フリースクールはどんな場なのか?
自分がそこで得たものは何だったのか?
フリースクールのメリット、デメリットとは?
をリアルな体験を交えて話してきました。

大きな戸建てのフリースクールは居心地よかったです


港町の戸建てを借り切っているあおもりサニーヒル

港町の戸建てを借り切っているあおもりサニーヒル

あおもりサニーヒルは2018年のオープン当初は、新町のワンルームを借りていました。

あの商店街によくある間口が細くて奥行きが長い物件です。

そこをコミュサーあおもりの事務所兼サニーヒルあおもりとして開いていて、パーテーションで区切ってはいましたが、空間は一つでした。

静かに過ごしたい子と、遊びに夢中になってはしゃぐ子、相談をしにきた人たちが混在していたので、何かと不自由があったそうです。

それで、昨秋から港町の戸建て住宅を借りて移転しました。

リビングだった交流室はこんなに広々!

この写真撮影してる方はカウンター的なスペースに立ち、そこには小さなミラーボールやスポットライトもありました。


交流室でお話ししました

交流室でお話ししました


その間取りは、なんと8LDK !

前は経営者の住宅だったらしく、壁紙が凝っていたり、螺旋階段にシャンデリア調の灯りが下がっていたりして、居心地のよいスペースになっています。

途中、参加者の皆さんと住宅内をぐるっと見学しましたが、皆さん驚きながらも楽しんでいました。

先日、クラウドファンディングで環境を整えるための支援を募りサクセスしていましたが、まだまだ物が足りていない様子です。逆に言うと、どんな風にこの広い空間を使えるかたくさん考えられますね。


螺旋階段の灯り

螺旋階段の灯り

卓球室まである

卓球室まである

フリースクールはそれぞれぜんぜん違うので


フリースクール時代のことを語る斎藤

フリースクール時代のことを語る斎藤


さて、お話しですが、最初はあおもりサニーヒルを開いた西川智香子さんが、なぜフリースクールを始めたのかの経緯を語るところから始まりました。

西川さんは(たしか)わたしより少し年下ですが、お子さんはもう大学生。

娘さんが中学生の時に起きた様々な出来事と当時の学校の対応から、学校に行けなくなる子、自死してしまう子のことは、決して他人事ではないと感じたそうです。

そのお話しがなんとも臨場感にあふれていて、
「再現VTRを見ているよう」
と言われるほどで、すっかり聞き入ってしまいました。

その後、わたしのフリースクール体験談。

最初にお断りしておいたのは、こちら。
「フリースクールはこれがあればフリースクールという枠組みは無い」
「だから、代表者やスタッフによって、かなり個性も違うし、内容も違う」

だから、'90年代の始めにわたしが通っていた「フリースクールさとぽろ」(既に閉鎖済み)での体験をもって、フリースクール全体を語れるわけではないのです。

というか、1人の体験でフリースクール全体を語ることは無理。

わたしは東京で仕事をしていた時に、近隣のフリースクール・フリースペースなどを訪ねて歩いたりしたのですが、それぞれまったく違いました。

共通点があるとしたら「不登校している子を受け入れている」くらい。

それがフリースクールであることをまずお話ししました。


破天荒な青春時代を送れた場所


わたしが通っていたフリースクールは、代表が芸術家だったこともあり、かなり学校からかけ離れた場所でした。

学校でやるような教科学習をしたことは記憶にありません。
(大検受験などで希望する子はスタッフが個別に見たりしてた)

絵を描いたり、楽器を弾いたり(バンドブームだった)、演劇を作ったり、朗読会をしたり。

留学生から英語や中国語を教わったり。

地方裁判所に裁判の傍聴に行ったこともありました。

当時は戸塚ヨットスクールや風の子学園など、不登校児を「更生」させる施設が死亡事故を起こすこともあり、学校や医療現場からも「治療対象」として見られる時代。

「登校拒否は病気じゃない」と当時は声を上げて戦う必要がありました。

だから、シンポジウムなどもよく開き、子ども側として発言をしたりもしていました。

近隣の人から「あれは不良スクール」と言われるくらいには、髪の色も格好もみんな自由でした。

たぶん、わたしが学校に行き続けていたら一生友だちにならなかったタイプの人たちと友だちになりました。

まだフリースクールが認知されていなかった中、スクールの経営も波乱万丈で子どもながらに「これは大変なことだぞ」と感じることもありました。

そんな話しを当時の写真を交えて話しました。

そこで、友だちの部屋に泊まり込んだり、片思いをして玉砕したり、バンドを組んでは解散したり、演劇と出会ってのめりこんだり。

やがて演劇は自分の仕事になるわけですが。

そんなちょっと破天荒な青春時代を送った場所でした。

でも、それは繰り返しますが、わたしがいたフリースクールが当時そうだっただけで、数年後にはまったく違う形態になっていたし、他のフリースクールでは教科学習もカリキュラムに入れていたりしました。

外に出るのはライフゲージをためてから

これはわたしの話しの最後に紹介したスライドです。


ライフゲージ3:寝床から出られない

ライフゲージ3:寝床から出られない

ライフゲージ20:好きなことだけできる

ライフゲージ20:好きなことだけできる

ライフゲージ50:現状に退屈してくる

ライフゲージ50:現状に退屈してくる

ライフゲージ100:少しずつ外へ出ていく

ライフゲージ100:少しずつ外へ出ていく


わたしがフリースクールに行ったのは、不登校して足かけ3年経ってからのことです。

もう家にいるのも飽きて、新しい場に出かけたくなった頃でした。

学校に行けなくなった頃は、ゲームでいうところのライフゲージが0に近い状態。

それから、ゲームやアニメなど好きなことだけできる時期があり、だんだん退屈してくる時期がありました。

まずは、しっかり家で休んで回復してからです。

親御さんには、子どもが学校に行けなくなったから、すぐフリースクールや塾や適応指導教室へ、というのは待って欲しいのです。

お子さんのライフゲージ、今いくつくらいですか?

そして、この段階は回復する一方ではなくて、時にどーんと後戻りすることもあります。

わたしもフリースクールで不登校の経験を前向きにとらえて歩き出したのに、急に不安にかられて落ち込んで鬱々としていた時期がありました。

行きつ戻りつしながら、少しずつ進んで、20歳で親元を離れて社会に出ました。

その後は、今にいたるまで(裕福ではないけれど)何かしら仕事しながら食べていっています。

まずは家が安心・安全な場であること、そして歩き出した時に受け入れられる場所があること。

そういう環境が多くあればいいなと、弘前では「ひろさき親と子の不登校ほっとスペースきみだけ」というサークルをしています。次回は1月25日です。



フリースクールあおもりサニーヒルのWebサイトはこちら。



のんびりしていたら西川さんが先にブログアップしていました。



お話しした内容に重なる記事はこちら。





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今回は、フリースクールが気になっているけれど、なかなか足を運ぶ機会が無い方向けにこのお話し会を企画しました。

不登校中の当事者、経験者、親、教職員など、9人の方々にご参加いただき、座談会では少し時間を延ばすほど話題が尽きませんでした。

またこういう機会や、単純に交流企画などで青森には伺いたいですね!


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