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初めてPTA大会に出席してみたら、宮澤崇史さんの講演に涙した話し

弘前市民会館で開催されたPTA東北ブロック全体会

弘前市民会館で開催されたPTA東北ブロック全体会


夏休み明けから様子が不安定な1年生の母やってる斎藤です。
息子の手を握って学校まで送っていくと、
(この道はいつか来た道……)
と30年以上前の自分を思い出したりします。

そんなわたしですが、実はPTA役員などもやっております。
ええ、あのなかなか引き受け手が決まらず、新年度に目に見えない攻防が繰り広げられるとか何とかある、あのPTAです。

だって、早い方が良いって聞くし。
ハンドメイド友だちが誘ってくれた係だから、一人は知っている人がいるし。

そんなわけで、弘前市で開催された第48回PTA東北ブロック研究大会 に参加してきました。 東北6県から皆さんお越しなんですよ。福島からはバスでも6時間くらいかかるのでは…。

朝から大変バタバタして、眠い目をこすりながら来賓挨拶や表彰状・感謝状授与などを見ていたのですが。

「元オリンピック選手の栄光あるお話しなんて、きっとこんな感じ…」なんて予想は吹っ飛ばされたのでした。


元・自転車プロロードレーサー宮澤崇史さんの記念講演


スポーツだけは負けない少年時代

宮澤崇史(たかし)さんは、1978年生まれで長野県長野市出身。

ごく普通の家庭だったが、6歳の頃に父親が他界。
それからは、母親が女手1つで姉と崇史さんを育ててきた。

「いわゆる落ち着きの無い子」だったそうで、
例えば参観日には他の子のママから
「タカシくんは、机の上を走らなくなったのねぇ」と言われるほど。

スポーツでは誰にも負けないと自負していたが、進学校だったのであまりそれは認められていなかった。

自転車との出会い

中学生の頃、ツール・ド・フランスの映像を見て、レースに出ようとしたがマウンテンバイクじゃないと出られなかった。
諦めきれずにいたら、母親が同僚から買ったばかりの新品のマウンテンバイク、しかも20万円もする最新型のものを頼み込んで借りてきてくれた。
まったく経験が無い初レース、大人ばかりの出場者290名の中、27位に入った。

高校卒業後、ヨーロッパ遠征に参加するが…

高卒後、東京のクラブチームに所属してヨーロッパ遠征へ。
成績も上向いてきた22歳の頃、母親が病に倒れた。肝臓癌だった。
余命1年、長くて2年との宣告を受け、姉と話し合った。

肝臓の生体肝移植をすれば助かるかも知れない。
血液型が合う自分が、肝臓を半分提供した。

これまでスポーツで鍛えてきた健康な体、この健康な肝臓はきっと母の力になれると信じた。

生体肝移植手術からのリハビリ

生体肝移植手術は成功。
同時に宮澤さんの選手生活復帰に向けた過酷なリハビリが始まった。

辛かったのは腰痛。
医師に「3回も切らないと肝臓に到達できなかった」と言われるほど鍛え抜いた腹筋を切った為、バランスを失って腰痛に一般の人以上に悩まされた。

手術から1ヵ月後に退院。
「3ヵ月は運動しないように」
そう、医師から言われていたけれど、待ちきれずにすぐに自転車に乗った。

復帰はしたものの成績ふるわず解雇

この間に、所属していたチームの契約更新があり危うい立場だったが、監督に復帰を誓う手紙を書き、なんとか契約を更新した。

そして、復帰。しかし、走れない。違和感があった。
膝の故障を2年間繰り返し、成績が上げられず、チームを解雇された。

もう、やめよう。自転車を降りよう、と思った。

再度、1からフランスへ

しかし、母親が背中を後押ししてくれた。

次の1年、単身フランスへ渡った。 レースに勝ち続け、その成績を持って元のチームと再契約を果たした。

2日かけてするトレーニングを1日でするようなメニューをこなした。
毎日、腹筋を3時間鍛え続けた。

アジアチャンピオン、北京五輪出場、そして、2010年全日本選手権優勝。

初めて自分のレースを見に来てくれた母親の前で、激戦を制してトップを走り抜けた。

「自分の為に手術をしたせいで……と母親に思わせたくなかった」

そして、現在…

その後、イタリアへ渡り、世界のトップチーム・サクソバンクに日本人で初めて入った。

2014年、36歳で引退。

今は湘南ベルマーレのロードレースチームの監督、セミナー、講演活動、イベントでのライドをしている。

9月17日・18日はツール・ド・東北 2016で石巻を走る。

「1つのことに対して、それだけの為に生きることは、なかなかできない」

宮澤さんが初めて「給料」を受け取ったのが27歳の時。
そこまで走り続けている選手はほぼいない。
でも、自分は日本でやるより、中学生の頃に憧れたヨーロッパで生きることをしたかった。

164cm・59kgの選手としては小柄な体で、それを否定せずに自分ができることをしてきた。

誰にもこれだけは負けない、1つのことを磨き続けることが大きな武器になる。

進学校でたいした成績ではなかったけれど、母親は自分が得意なことを褒めてくれて、ずっと支え続けてくれた。

大人から見たら危ういようなことでも、その子が夢中になっていることを否定しないで欲しい。

肝移植手術から15年が経った。 母親の手術をする当時、生体肝移植からの最長存命が16年だった。
その16年目を迎えることができたことを、本当にうれしく思っている。


行間に潜むリアル

宮澤さんとお母様の絆については、テレビでも放送されたそうです。

ちょっと、自分のメモと違うところはありますが、PTA大会にふさわしい感動的なエピソードだと思います。

でも、それ以上に、もっとシビアな状況が想像できました。

だって、27歳まで安定した待遇が無く、ほとんどヨーロッパに行ったきりの息子を支え続けたんですよ?

ともすれば、親子の愛!とか、逆境からの努力の復活!という感動ストーリーになりそうな話しですが、とつとつと間を開けながら出てくる宮澤さんの言葉は、その合間に様々な情景を想像させるリアルさがありました。

いま、わたしが始めていること

たぶん、(主催者発表)1800人を超える参加者の中で、ここまで前のめりにメモを取りながら話しを聞いていた人は、そうはいなかったと思います。

特にわたしは、ロードレースについてそれほど興味はありませんでした。
ロードレースと聞いて、それがバイクなのか自転車なのかもわからないくらいです。

息子もまぁ、今のところスポーツとは縁遠いタイプです。

では、なぜ、こんなに関心を持って聞いたかと言うと、
先月から Players1st というWEBサービスの会社に参加しているからです。


と言っても、通勤はありません。
本拠地は東京ですが、完全リモートワークの会社で、6人中4人が青森県在住です。

世界のトップレベルのスポーツ選手であっても、なかなか日本でスポーツで食べて行くことは難しいという状況を、個人のサポーターが支えていく仕組みを作ろうとしているサービスです。

これについては、また改めて記事を書きます。

とにかく、この仕事に関わることで、どれほどスポーツ選手が収入を得ることが難しい状況なのかという情報に触れている中だったので、宮澤さんのお話がとても刺さりました。

申し込んだ時は、まだこういうことに関わるなんて思ってもいなかったのですけれど。
これも天の配剤というやつなのでしょう、きっと。

宮澤さん、遠く弘前までお越しいただいてありがとうございました!

宮澤崇史さんオフィシャルサイト


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