一番長く過ごした街を歩いてきました
お盆休みは、北海道の実家に帰省しています。
本家のお参りと親族バーベキュー大会が終わったら、翌日は札幌市へ。
父が札幌勤務をしていた14歳~19歳と、結婚してからの27歳~38歳まで。
他に地方出張の仕事で1年ほど。
なんだかんだで41年間の人生のうち、17年くらいの月日を過ごしたのが札幌です。
深川市で7年、日高の富川町で7年、東京で6年、弘前でもうすぐ4年。これで合計41歳。
つまり、人生で一番長く過ごした街が札幌です。
街を歩いていると、入れ替わった店舗や、変わった建物もあるけれど、まだまだ駅前から大通近辺くらいは、迷子になることなく地上と地下を行き来して、目的地へたどりつける。
そうして歩いていると、そこここに、過去の自分の影が見えるんです。
あえてかつての通勤路を歩いてみる
札幌駅から大通へ移動するのに、あえて駅前通りや地下歩行通路ではなく、通勤に使っていた道を歩きました。
よくランチに使っていたお店、毎日のようにのぞいていたコンビニ……スーツを着て汗をかきながら通っていた道。
1時間のお昼休みにどこまで行けるか試していた30歳前後の頃。
産後復職したら、時短勤務で30分休憩になり、手弁当で別ビルの休憩室に通っていた35歳の頃。
まだ母乳を続けていたから、乳房がはってはって、でもお腹はすいてすいて、そのアンバランスさを嘆いていたっけ。
大通公園を歩くと、デパートの看板が変わっていて、でも自分はほとんど利用していなかったので、しばらく前の店舗を思い出せないでいました。
…丸井の何かだったっけ?
いまだに丸井今井って言ってしまうけど。
親からのおこづかいで活動していた15、16歳の頃は、よくこのベンチで友だちとずっとしゃべっていたなぁ。
10代からの友人と近況話し
フリースクール時代からの友人と久しぶりに会って、近況の話しをする。
お互いに色々と変わったけど、話し始めたら昔と同じ。
毎週のように札幌の小劇場に通い、好きな舞台の話しをしていた17、18歳の頃。
「わたしたちが41歳になるなんてねぇ」
わたしたちは、不登校という共通の体験があるので、わりと早めに「頭(理屈)でいくら頑張っても、心身がついていかない」状態を知っています。
頑張り続けても傷が深くなる時は、もう思い切って休んだ方がいい。
休めないなら、もうそのレールから下りてしまった方がいい。
「そんなことはできない」なんてことは、ない。
ほとんどのことは、生きてさえいればどうにかなる。
がんばりすぎて心身を深く病んでしまう方が、回復に時間がかかる。
まだ「不登校」という言葉が一般的でなかった時代に、義務教育の学校に行けない、という世間からみたらありえないことをしても、41歳まで生きているのだから。
学校の夏休みが終わる日に、この世からおさらばしなくてよかったよ。
「どうにかこうにか生きていって、また会おうねぇ」と別れました。
故郷ではなくホームタウン
札幌はわたしにとって勝手知ったるホームタウンです。
「故郷」と言うにはしがらみもなく、幼少時代を過ごしてはいないから郷愁もないし、実家はもうとっくに札幌ではないのだけれど。
街を歩けば、あちこちに当時の思い出があります。
ここでずっと子育てを続ける選択肢もあったけれど、もっとはっきりと「故郷に帰りたい」という思いを持っていた夫とともに青森県の弘前へ渡りました。
わたしは故郷を持たないぶん、どこへでも行けるから。
そうして、またたまに戻って来た時に、過去の自分があちこちにいて、今もつながっている友だちがいるというのも悪くないものです。
午前中から昼過ぎまでグリーンランドで遊び、それから実家に息子を預けて、15時に札幌中心街をウロウロ。10代からの友達と長々話して、カナリヤで生地買って、これから電車で実家へ。
— さいとうみかこ(うらべっち) (@urabetti) 2016年8月16日
色々変わってるけど、一番長い時間を過ごした街。
また来るよ。会えた人も会えなかった人もまた会おう。
またね。元気でね。
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